2018年5月29日火曜日

時間の価値が相対的であることにについて

 私も人並みに社会人になってしまったため、当たり前の話ではあるが、生活時間の大半は仕事をすることに割かれている。働いていてよく思うのが、「この8時間で映画4本観れるのかよ!」ということである。実際に見るかどうかは別として。さらに今日気が付いたのは、自分が青春をささげたと言ってもよく、その後にも影響を与えたと思われる高校時代のボート部での活動は週3回、一回で多めに見積もって3時間としても、週9時間である。ということは、一日の労働がほとんど一週間分の部活の時間に匹敵するということになる。部活をやっていたのはだいたい2年間なので、労働で言ったら4カ月くらいでそれに追いついてしまうことになる。今だいたい2カ月なので、もう半分である!ああ!そんなものだったのか部活というのは!
 しかし部活というのが、自分にとって大きな存在であったのは事実だ。さらに裏返して考えれば、高校時代の自分がもっとも多く時間を割いていたのは実は「授業を受けること」であった。学校しかり、塾しかり。これを「勉強をすること」というようにさらに広げて考えればこれはなかなか大きい時間になる。しかし、自分にとってはそれはあまり印象にも残っていないし、そこまでやっていたという自覚はない。
 つまり、後々振り返って「あの頃あんなことやっていたなぁ」というのは必ずしも割いた時間に比例しないということだ。これはなかなか自由のない社会人にも希望を与えるかもしれない。自分は浪人のころは毎週映画館に映画を見に行くことを自分に課していて、結局夏ぐらいでやめてしまったので30回ぐらいだが、それは結構印象に残っている。しかしそのために割いた時間は週に2時間、多くて4時間だ。多少無理してでも行っていたのと、そうすることが自分には絶対に大事なんだという謎の使命感があったから自分の中に残っていると思う。
 ただ、25歳の今同じように映画を観ることではそこまで自分の時間の価値は上がらない。何か一つ、強い情熱をもって取り組むものを見つけたいが、それを見つけるのはなかなか難しい。大人の難しいのは、学生と違って「今しかないんだ」という気持ちに欠けるところにある。

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