2016年12月21日水曜日

鎮魂歌

年の瀬ということでこのブログを振り返っていたら、まぁまぁ書いてあるにもかかわらず下書きに入れられたまま日の目を浴びずにいたのが3件あったので、ここにまとめて載せることで成仏させてあげます。公開しなかったのはうまくまとめられなかったとか、自分の考えていることを文章化できなかったとか、そういう理由。

どうせなので、解説もつけてみました。

①8月21日 無題

オリンピック、見てますか~?

オリンピックは面白い。

みんな私からは信じられないような努力しているという点。

1日12時間の練習という。

 そうして獲得したメダルは、とてつもなく大きな価値があるが、それは社会的な価値と、本人にとっての価値である。私たちは例えば日本選手がメダルを取ったりするとそれを自分のことのように喜び、ときには涙を流すことさえある。しかし、当たり前ながら「自分のこと」と「自分のことのよう」では全く違う。
 
 考えてみよう。例えば生まれつきの超絶天才がいるとする。(これはもちろん、ボルトとかフェルプスのような傍から見た天才とは違う、現実にはおそらくありえない存在である)その天才が何の努力もなしにオリンピックで金メダルを獲得できたとして、それは本人にとって価値のあることだろうか?おそらくないだろう。

さて、これはずいぶん簡単な思考実験であるが、これを私たちの経験できるようなことに寄せて考えてみるとどうだろう。

例えば勉強で考えてみる。大学受験というのは、とにかく結果だけを見るものである。どれだけ努力をしようが、それは関係がない。高校にほとんどの勉強も、大学受験を念頭に置くものである。
なので私は、定期試験の点数が悪くても受験ができればいいんだろ、という気持ちでやっていた。(こういう考え方の人間が浪人をすることは当然の結末であった)



卓球の愛ちゃんは幼少期から注目されていたが、小学生の時代にインタビューをされた際にこんなやりとりがあったという。(細かい文脈は忘れてしまったが)
「四次元ポケットがあったら、どんな球でも打ち返せるラケットがほしい?」
「いらない。練習でうまくなる」
こうである。

(解説:たぶん、努力して得た結果は本人にとってすごく価値がある!ということを書きたかったのだが、オリンピックで興奮してしまったせいか、まとまらず)


②8月21日 無題(なぜか上のと同じ日)

1年ぶりの蓼科生活から帰ってきた。

去年は同期2人と行って、それでとても楽しかったが、今回は単独で乗り込んだので去年のように楽しめるかという不安があった。しかし、その不安をよそにばりばり楽しんできた。

いま蓼科ロスの状態にある。このような気持ちになるのは年間でもそうそうないので書き留めておかねばなるまい。


・中毒的
・先輩ぶれる
・安易な快感
・彼女がいるだけであの反応
・かわいい


頭の中を流れるは「愛を込めて花束を」である。ぜひとも桐陰祭で合唱をもう一度聞きたいと思っている。

(解説:急に箇条書きが始まり意味不明。これも、いろいろ書きたさに文章力が敗北した好例。)

③9月13日「モチ女」

 今まではっきりと意識していなかったが、今日本多君と話していて、私の行動意欲を非常に左右する存在がいることに気が付いた。それがモチ女、すなわち「参加したいモチベーションを高める女子」である。
 誘われた飲み会、今日はどうしようかな~というとき、あの女子が来るということであれば、じゃ…私も行こうかな~なんてこと、男子諸君は非常によく経験していることだろう。それはモチ女です。

 ただ可愛いというだけでモチ女になるものではない。重要なのはある程度自分と仲がいいこと、そして自分に対するそれなりの好意が感じられることである。これはもう、そのイベントが楽しくなることが約束されているようなものである。(可愛いだけで仲良くもない女子では、やっぱだめだよね)

 過去あなたが参加したイベントを思い出してごらんなさい。まず、男子だけの遊びはだいたいそれなりの楽しさがある。ここに女子が加わったとき、楽しかった思い出と、なんでこんなのに参加しちまったかなという思い出にはっきりと分かれるのではないか。(ここで注意すべきは男友達に準ずる女友達とモチ女を混同しないことである。モチ女は1人でも場を整え、どのようなメンバー構成でも生きるが、女友達は埋没する場合がある。)
 
 まぁ私もこれを書いていて正直どの程度賛同を得られるのかわからないのだけど、実際みなさんどう?男子諸君の意見をお聞きしたい。

(解説:これは普通に書き上げたが、なんか気分が乗らずにあげるのやめた)

2016年12月20日火曜日

頭の良い人は

 昔の科学者はよく随筆、エッセイを書いていた。一般的にはあまり知られていないが、たとえば寺田寅彦というのはその代表格で、夏目漱石とも親交があった人物である。岩波文庫から「柿の種」という随筆集が出ているが、これは私の人生のなかでも特に好きな本の一つです。ああいう文章を書いてみたいと思って、このブログを書いている。

 頭の良い人の頭の中をのぞいてみたいということをつねづね思っていて、エッセイを読む行為はその一つであるような気がしている。専門的なことを専門的に語るわけではなくて、普通の風景をみて、私では見逃してしまうような切り口でものを見ている、それを教えてくれるのがエッセイで、特に科学者が書くものは一味なにか違ったものを感じる。

 そんな私が大喜びするようなシリーズが刊行されている。平凡社からでている「STANDARD BOOKS」というものです。興味のある人は調べてみてほしい。いろんな科学者のいろんなエッセイが素敵な装丁で読める、あ~なんと素晴らしい。企画者に大感謝したい。

 それで今は、ノーベル物理学賞も受賞した朝永振一郎先生のを読んでいるのだが、ちょっと今回はそちらの文章をここに打っていきたいと思う。これが本題です。(意外とここまで長くかかってしまった)前々からこういうことをやりたいと思っていたのだが、なかなかやらなかったのだが、基本的には自分の文章の練習と、よく文章を咀嚼したいからです。でわ

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 なまいきというのは、年の熟さない者が、年うえのものの口つきや動作やなんかのまねをして、しかしまだ何となく幼くて、いくらかちぐはぐな感じがする、そういう感じをあらわすことばのようである。その場合、その口つきや動作が、そっくりうまくまねされていればいるほど、なまいきさは心にくくなる。
 男の子が成人に近づくと、なまいきな手つきでタバコなどふかすようになる。シガレットケースをパッとあけて、紙まきを一本おもむろにとり出し、次にそれを口にくわえ、ライターをカチッとおして、それに点火し、次に、ひとさし指となか指とでそれをはさんで支えながら、一息ふかく烟を吸う。すい終わると、タバコをはさんだまま手くびを外がわに、ななめ上に回転させてそれを口からはなし、そして口からフーッと烟をはく。灰をおとすときには、ひとさし指となか指とではさんでいたタバコをなか指とおや指にはさみかえ、そうして、自由になったひとさし指で、タバコのあたま近くをポンとたたく。まだ子どもっぽさがほっぺたに残っているような顔をしているくせに、こういう動作を心にくいばかり適切な速度と適切な間を以て行なうので、それは大変になまいきに見える。
 なまいきという感じがおこるのは何も人間の場合にかぎらない。ある種の動物にもそういうのがある。
 一昨年あたりから、毎年春になると庭の池におびただしい数のおたまじゃくしが生まれる。だんだん日がたつと、しっぽが消え脚がはえ、親と相似形の蛙になる。すると彼らは水の外にはい出して来る。二、三日は、池のふちの煉瓦の影や、水はけ口の日あたらぬあたりに、まっ黒くひしめき合って動いている。この、かたまって群をなしてうごめいている姿は、うっかりさわるとつぶれそうに弱々しく、一向になまいきではないが、ためしに二、三匹そっとつまんで金だらいの水の中に放ってみると、とたんに、すいすいとたっしゃな蛙泳ぎをする、そのなまいきさ。水の中に石を入れて陸地を作ってやると、そこに泳ぎついて、のそのそと上陸し、陸地の一ばん高いところにたどりつき、小指のさきほどもない小さなやつが一かどの格好で、両手をついてうそぶいている。このとき、ちょっとおしりをつついてやると、ぴょんととんで水中に飛びこんで、すいすいと泳ぐ。まさにおや蛙の動作そっくりである。


(一章まるまる写そうかと思っていたが、ここで挫折しました)