2016年5月30日月曜日

5月も終いやな

ここのところは、研究室もそんなに忙しくなく、休日にはスポーツにいそしみ、睡眠も十分にとり、彼女に会い、友達に会い、本を読み、テレビを見、ラジオを聴き、工作もし、こうやって並べ立てるとプラスの条件はとても多くある一方で、マイナスのこともさして浮かばない。

しかし、どことなく退屈である。

高校のとき政治経済の先生が配るプリントのタイトルが『退屈』だったな。なんでそんなタイトルだったか、聞かなかったと思うが、今でもなんとなく印象に残っている。

この全身にまとう退屈感。どうしたもんかね。ある意味、自分を追い立てる、何か大変なものがあるときはそれが苦しみとなり、それが終わることが楽しみになる。今はそうでないということで、それは喜ばしいこと贅沢なことかもしれないけれど。

2016年5月1日日曜日

みんなの価値観


「価値観の押し付け」が嫌いだ。自分の考えが絶対的に正しいと思っている人の、一方的な主張。
他人の思想に対する必要以上の干渉。なんとなく、年を追うごとに周りにはこういう人が減ってきたような気がするが、これは人の成長なのか、自分がそういう人を避けてきているのかは微妙なところである。(なんとなくマイノリティー的な、というか若干「ずれている」感じのある人は、多分さんざん人に価値観の押し付けをされてうんざりしているのか、そういう人ほど人に押し付けるようなことはしない気がする。)

しかしこういうことは、昔は考えていなかった。どんな話をしていたのかは忘れたが、高2ぐらいのころに宮沢に「それは価値観の押し付けでしょ」と言われて、はぁ、そうか、と思ってそれ以来ずっと気を付けている。

こういうことに対する嫌悪感は、多分もっと昔からあったのだと思うけど、それをはっきりとした言葉にしたことはなかった。だから人に対しては気づかずにしていたことが多かったと思う。

でもこれってけっこう重要なことだ。だって、人の考えなんか、文字通り他人事で、どう考えていようが全くどうでもいいことなのだし。
インターネットの論争なんかほとんど価値観の押し付け合いじゃないですか?現実でもそういうことがまぁ~、ある。それはほとんど差別的であったりする。「自分とは違う立場の考え方が存在する」「その考え方と自分の考え方はフラットな関係である(優劣はない)」ことに気づいていないのである。

じゃあどうしてこういうことを道徳の時間に僕たちは習わなかったのか?個性が大事、みたいなことは聞いたかもしれないけど。
それはもう教育そのものが価値観の押し付けだからですな。でもこれはもう仕方のないことだ。だって先生や親がなにか言う度に「それって価値観の押し付けじゃない?」といちいち子供が言っていたら、教育にもなんにもならない…。(笑)

---

さてもうひとつ、「みんな」という概念が嫌だ。なんだか中学生みたいだが…。

やっぱりこの世の中一定数いるのは、「みんなやってるよ!」という類のことを言う人。ここには問題が二つあります。
まず一つ目はそのみんなの行動が正解だと、なんの疑いもなく信じていること。
そしてもう一つ、その「みんな」って、なに?どうもぼくは含まれていないようだけど…
みんなとはevery oneである。雰囲気的には一人残らずという感じである。絶対君のいうみんなは、一人残らずではない。ぼく以外にも含まれていない人がいるだろう。なんとなく多数派っぽい、というだけでしょう、と。そんな多数派も、ごく狭い世界のなかのものでしかないのに。

でも実際にこういうこという人って、素直ないい奴、というのがだいたいだから、ちょっと何もいえなくなる。「君のいう、みんなの定義とは…そもそもみんなのやり方が正しいのか…」なんて言ったら「そんなこといちいち考える?(不幸せな奴だなぁ)」と呆れられるのがオチである。

でもやっぱり、必ずしも「みんな」の考え方が正しくないかもしれないと疑うことは重要だと思う。そうです、価値観の押し付けって、だいたいはマジョリティからマイノリティに向けてされるものだから。

じゃあこれも教育で、と思うけどこれもまた難しいよ。特に日本人にとって、「正しさ」を教え込むために「みんなそうしている」っていうの強いからな。「ヨソはヨソ、ウチはウチ」とは言うけれど…。