2016年12月21日水曜日

鎮魂歌

年の瀬ということでこのブログを振り返っていたら、まぁまぁ書いてあるにもかかわらず下書きに入れられたまま日の目を浴びずにいたのが3件あったので、ここにまとめて載せることで成仏させてあげます。公開しなかったのはうまくまとめられなかったとか、自分の考えていることを文章化できなかったとか、そういう理由。

どうせなので、解説もつけてみました。

①8月21日 無題

オリンピック、見てますか~?

オリンピックは面白い。

みんな私からは信じられないような努力しているという点。

1日12時間の練習という。

 そうして獲得したメダルは、とてつもなく大きな価値があるが、それは社会的な価値と、本人にとっての価値である。私たちは例えば日本選手がメダルを取ったりするとそれを自分のことのように喜び、ときには涙を流すことさえある。しかし、当たり前ながら「自分のこと」と「自分のことのよう」では全く違う。
 
 考えてみよう。例えば生まれつきの超絶天才がいるとする。(これはもちろん、ボルトとかフェルプスのような傍から見た天才とは違う、現実にはおそらくありえない存在である)その天才が何の努力もなしにオリンピックで金メダルを獲得できたとして、それは本人にとって価値のあることだろうか?おそらくないだろう。

さて、これはずいぶん簡単な思考実験であるが、これを私たちの経験できるようなことに寄せて考えてみるとどうだろう。

例えば勉強で考えてみる。大学受験というのは、とにかく結果だけを見るものである。どれだけ努力をしようが、それは関係がない。高校にほとんどの勉強も、大学受験を念頭に置くものである。
なので私は、定期試験の点数が悪くても受験ができればいいんだろ、という気持ちでやっていた。(こういう考え方の人間が浪人をすることは当然の結末であった)



卓球の愛ちゃんは幼少期から注目されていたが、小学生の時代にインタビューをされた際にこんなやりとりがあったという。(細かい文脈は忘れてしまったが)
「四次元ポケットがあったら、どんな球でも打ち返せるラケットがほしい?」
「いらない。練習でうまくなる」
こうである。

(解説:たぶん、努力して得た結果は本人にとってすごく価値がある!ということを書きたかったのだが、オリンピックで興奮してしまったせいか、まとまらず)


②8月21日 無題(なぜか上のと同じ日)

1年ぶりの蓼科生活から帰ってきた。

去年は同期2人と行って、それでとても楽しかったが、今回は単独で乗り込んだので去年のように楽しめるかという不安があった。しかし、その不安をよそにばりばり楽しんできた。

いま蓼科ロスの状態にある。このような気持ちになるのは年間でもそうそうないので書き留めておかねばなるまい。


・中毒的
・先輩ぶれる
・安易な快感
・彼女がいるだけであの反応
・かわいい


頭の中を流れるは「愛を込めて花束を」である。ぜひとも桐陰祭で合唱をもう一度聞きたいと思っている。

(解説:急に箇条書きが始まり意味不明。これも、いろいろ書きたさに文章力が敗北した好例。)

③9月13日「モチ女」

 今まではっきりと意識していなかったが、今日本多君と話していて、私の行動意欲を非常に左右する存在がいることに気が付いた。それがモチ女、すなわち「参加したいモチベーションを高める女子」である。
 誘われた飲み会、今日はどうしようかな~というとき、あの女子が来るということであれば、じゃ…私も行こうかな~なんてこと、男子諸君は非常によく経験していることだろう。それはモチ女です。

 ただ可愛いというだけでモチ女になるものではない。重要なのはある程度自分と仲がいいこと、そして自分に対するそれなりの好意が感じられることである。これはもう、そのイベントが楽しくなることが約束されているようなものである。(可愛いだけで仲良くもない女子では、やっぱだめだよね)

 過去あなたが参加したイベントを思い出してごらんなさい。まず、男子だけの遊びはだいたいそれなりの楽しさがある。ここに女子が加わったとき、楽しかった思い出と、なんでこんなのに参加しちまったかなという思い出にはっきりと分かれるのではないか。(ここで注意すべきは男友達に準ずる女友達とモチ女を混同しないことである。モチ女は1人でも場を整え、どのようなメンバー構成でも生きるが、女友達は埋没する場合がある。)
 
 まぁ私もこれを書いていて正直どの程度賛同を得られるのかわからないのだけど、実際みなさんどう?男子諸君の意見をお聞きしたい。

(解説:これは普通に書き上げたが、なんか気分が乗らずにあげるのやめた)

2016年12月20日火曜日

頭の良い人は

 昔の科学者はよく随筆、エッセイを書いていた。一般的にはあまり知られていないが、たとえば寺田寅彦というのはその代表格で、夏目漱石とも親交があった人物である。岩波文庫から「柿の種」という随筆集が出ているが、これは私の人生のなかでも特に好きな本の一つです。ああいう文章を書いてみたいと思って、このブログを書いている。

 頭の良い人の頭の中をのぞいてみたいということをつねづね思っていて、エッセイを読む行為はその一つであるような気がしている。専門的なことを専門的に語るわけではなくて、普通の風景をみて、私では見逃してしまうような切り口でものを見ている、それを教えてくれるのがエッセイで、特に科学者が書くものは一味なにか違ったものを感じる。

 そんな私が大喜びするようなシリーズが刊行されている。平凡社からでている「STANDARD BOOKS」というものです。興味のある人は調べてみてほしい。いろんな科学者のいろんなエッセイが素敵な装丁で読める、あ~なんと素晴らしい。企画者に大感謝したい。

 それで今は、ノーベル物理学賞も受賞した朝永振一郎先生のを読んでいるのだが、ちょっと今回はそちらの文章をここに打っていきたいと思う。これが本題です。(意外とここまで長くかかってしまった)前々からこういうことをやりたいと思っていたのだが、なかなかやらなかったのだが、基本的には自分の文章の練習と、よく文章を咀嚼したいからです。でわ

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 なまいきというのは、年の熟さない者が、年うえのものの口つきや動作やなんかのまねをして、しかしまだ何となく幼くて、いくらかちぐはぐな感じがする、そういう感じをあらわすことばのようである。その場合、その口つきや動作が、そっくりうまくまねされていればいるほど、なまいきさは心にくくなる。
 男の子が成人に近づくと、なまいきな手つきでタバコなどふかすようになる。シガレットケースをパッとあけて、紙まきを一本おもむろにとり出し、次にそれを口にくわえ、ライターをカチッとおして、それに点火し、次に、ひとさし指となか指とでそれをはさんで支えながら、一息ふかく烟を吸う。すい終わると、タバコをはさんだまま手くびを外がわに、ななめ上に回転させてそれを口からはなし、そして口からフーッと烟をはく。灰をおとすときには、ひとさし指となか指とではさんでいたタバコをなか指とおや指にはさみかえ、そうして、自由になったひとさし指で、タバコのあたま近くをポンとたたく。まだ子どもっぽさがほっぺたに残っているような顔をしているくせに、こういう動作を心にくいばかり適切な速度と適切な間を以て行なうので、それは大変になまいきに見える。
 なまいきという感じがおこるのは何も人間の場合にかぎらない。ある種の動物にもそういうのがある。
 一昨年あたりから、毎年春になると庭の池におびただしい数のおたまじゃくしが生まれる。だんだん日がたつと、しっぽが消え脚がはえ、親と相似形の蛙になる。すると彼らは水の外にはい出して来る。二、三日は、池のふちの煉瓦の影や、水はけ口の日あたらぬあたりに、まっ黒くひしめき合って動いている。この、かたまって群をなしてうごめいている姿は、うっかりさわるとつぶれそうに弱々しく、一向になまいきではないが、ためしに二、三匹そっとつまんで金だらいの水の中に放ってみると、とたんに、すいすいとたっしゃな蛙泳ぎをする、そのなまいきさ。水の中に石を入れて陸地を作ってやると、そこに泳ぎついて、のそのそと上陸し、陸地の一ばん高いところにたどりつき、小指のさきほどもない小さなやつが一かどの格好で、両手をついてうそぶいている。このとき、ちょっとおしりをつついてやると、ぴょんととんで水中に飛びこんで、すいすいと泳ぐ。まさにおや蛙の動作そっくりである。


(一章まるまる写そうかと思っていたが、ここで挫折しました)

2016年11月27日日曜日

解消

 よく人に「バカにしてるでしょ!」的なことを言われることがある。そういうときはだいたい、「そんなことはないです」と言うのだが、実際ほとんどそんなことはない。この乖離がずっとあったのでなぜだろうと、考えていた。

私はよく人のことを笑うのですが、それはもうほとんど好意の現れです。それはつまりその人の言動が面白いということへのリアクションであります。面白いというのは自分の中にない感性あるいは、予想外のものに出逢ったときに、好感が加わって湧き上がるものです。そして私は面白いのが大好きなのです。つまり笑いの中にはには少しく憧れやリスペクトも含まれるので、バカにする、すなわち侮蔑のような感情は基本的にない。

ちなみに本当にバカにするような感情が湧くときもある。そういうときは基本的に黙って、笑うこともない。ただ心の中で「20余年生きてきてこんなレベルでしかものを考えられないのか」「こいつは品性というものを親の腹の中に置いてきたな」そう思うだけです。こういうときに「バカにしてるでしょ」と言われることはまずない。

笑ったときに「バカにしてるでしょ」とは言われてもそんなに角が立った感じがしないのは好感が伝わっているからではないかと思うけど。だがそれで本気で侮辱されたと思う人がいたらすまないという気持ちである。

2016年10月29日土曜日

読まないでいいやつ


今年もあと2ヵ月かあ。去年は年間35件の投稿だったけど今年は現時点で14本目。こういうのはマイナスのエネルギーの発散の場みたいなところがあるから、この結果にも納得いくよ。とりあえずブログは続いているだけで良し。気づいたらブログ開設から丸四年が経過している。もう5年くらいやったかなという感覚があるが。

今日はなかなか眠くならないので開いてみたが、特に書こうということがあるわけではない。

本当に思いつかない。

こんなのは没にしていいところだけど、載せることにする。

2016年10月16日日曜日

「君の名は。」わりと面白かった派です

このブログを見ている人にだけこっそり紹介しちゃう。

「シング・ストリート 未来へのうた」

一切話題になってないけどよい。シネマート新宿(新宿三丁目からわりとすぐ)であと1週間くらいは観られるかな。


2016年9月27日火曜日

自分自身という殻の破れなさは異常。

はーい。今回はカンボジアからの投稿ですよ。

ここのところよく考えるのは、自分は永遠に自分から逃げられないということです。
夏休みという時期もあって、いろんなところに旅行に行ったとか、そういうのをFacebookでよく見る。
留学している友達もいるな。そういうのに少なからず憧れたりするけど。みんな知ってるようにいいところ、きれいな部分を切り取ってあるじゃん、ああゆうのは。現実は写真の100倍以上の情報量?もっと多くのものによって構成されている。それはすべて自分中心、自分の感性によって展開されて、しかもどこにいっても自分の生活、そう、ライフ、どっこに行っても自分の生活なんだよね。

自分が強すぎる。自分自身に縛られているような感じだよ。この感じは他の人はどのくらい持っているかな。ある程度、自己の世界が確立されてしまったからこそ、自分の解釈、自分の尺度でしか行動できないこの感じ。

カンボジアにいても夜出歩きもせず、こうやってしこしこブログを書いている、これが私ですからね。家にいるのと何ら変わらんよ。これが自然なる自分の選択で、強い。強いんだよな~。勝てる見込みない。

自分の世界、広がらんな~。広がった瞬間にそれが自分の世界の内側になるからそういう思いが強くなるというのもあるけど。誰かに引きずり込んでもらうしか違う世界への行き方はないような気がするよ。けっこう最近の自分を思い悩ますテーマである。

2016年9月12日月曜日

調子の波

 前回書いたのがおよそ2週間前だが、あれから1週間ほどは非常にいいペースで読書が進み、そのあとの1週間はだいぶペースが落ちて停滞している。

 こうしたことは以前からよくあることである。今まではここでブームの終息を迎えていた私だが、今回はこれがどういうことなのか考えてみたい。

 まず、そもそも自分の中の読書ブームが始まるというのは、まぁいろいろあれど、まわりの環境(忙しさや生活リズム)と、自分の精神状態がそろったときに、何かしらのきっかけがあって始まるものである。当然、この環境と精神状態は波のように絶えず変化し続ける。

 読書というのは精神的な部分が整っていないと、まず内容が頭に入ってこないものである。これは例えば筋トレや片付けのような他の活動が、(最初のハードルが高くても)やり始めると勢いがつくものとは決定的に違う。自分の頭のなかが何か別のことによって埋め尽くされているときに読書に没頭するのはなかなか難しい。

 今現在の私は上のような状況に近いがしかし、ペースが緩くなった始まりはそうではなく、もっと自然なものであった。それはおそらく単純な脳の疲れだ。

 毎日ランニングを続けると体に疲労がたまっていくのは当たり前だが、たぶん読書を続けたときにも同じような現象が起きている。脳が疲れてくるのだ。特にちゃんとした本を読み続けていると。

 このようなときには読む本のレベルを下げる。古典からエッセイへ、そして最後は漫画へ。漫画は基本どんな時でも内容が頭に入ってくる。このようなバランスのとり方も大事だと最近では思っている。私は前回の投稿でもお察しの通り、「自分のためになるような」読書をつい求めてしまうところがあるが、実際には脳がそこまで成長していない。そこでむしろ清濁併せ呑むという気持ちで、しょ~もない漫画を読んでバランスを取りに行くと。

 だがしかし、たとえ漫画を読むにしても、このようにして消費ばかりを続けていくのはどうしてもきついものである。これも何度も経験した。そこで消費過剰を解消するには、何かを生産することである。すなわちアウトプット、つまりはこれ、このブログを書くということ!そういうことなんです。今書いているのも、消費過剰を解消するためという一面が大いにある。

 また、アウトプットといかないまでも、なんとなく思索をするような、ぼーっとするような時間もまた必要だと思っている。孔子はこう言っている。「学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」。まぁこういうことですな。

2016年8月27日土曜日

私の読書生活

 M1の夏休みは存外暇だったので、旅行も何度も行って、オリンピックもあって、ブログのネタには困らないぐらいだったのだが、熱量を込めてたくさん書こうとした結果ついに書けなかった。途中で書くのを諦めた下書きが2つ残っている。

 さて最近は、久々の傾向として読書生活が充実している。ここ数年間で1番といっても過言ではないかもしれない。やはりインテリへの憧れがある私としては現在の状況は好ましい。

 現在の読書生活の充実には理由がある。まずその背景からご説明したい。

 私の過去の読書生活を妨げてきた最大の理由が、書籍の購入が読むスピードに追い付かないことであった。私はもともと読むスピードがどちらかというと早い方である。しかも、本が面白ければ面白いほど早く読んでしまうものである。これだと、次々と本を買っていかなけばならず、しかもできるだけ面白いものを、と思うとさらに持続が難しく、読書生活の波が途絶えるということになる。これが過去数度経験したパターンであった。

 第2の課題は、かつて買ったのに読んでない本、および読んで面白かったにも関わらず内容をあまり覚えていない本が数多く家に存在していることである。
 一度読んでこれは名著だ!!と感銘を受けたにも関わらずその後読み返していない本のなんと多いことか。せっかく読んでも、それを忘れてしまっては意味がない。何度も読んで我が血に、我が肉にしなくては。まんがでは「ピューと吹くジャガー」や「まんがで覚えることわざ」的なやつ(タイトル覚えてない)は繰り返し読んで私の一部分となった。しかし本で私の血肉になっているといえるものはあまりに少ない。いや、ないかもしれない。
 そして買ったのに読んでいない積ん読本、これは私の本棚の3割を占める。

 これは読書のモチベーションに大きくかかわることである。オードリー若林の祖父は自分の本棚の本を「俺は何一つ読んでねえ!」と(実際に読んでなかったのか、読んだ内容を忘れたのかは不明だが)本をすべて窓から投げ捨てて燃やしたという。かくいう私も似たようなプレッシャーを感じてかつて9割方の本をブックオフに売ってしまったことがある。とにかく、所有している本は読んでいる、ということが大事なのである。

 以上の2つの課題を解決すべく私は最近、次の方法で読書している

①新しく買った本と、家にある本を交互に読む
②一度に買う本は1冊
③amazonのレビューを大いに参考にする
 
 これらの方法は、前に挙げた課題を大いに解消するものである。まず①の方法により、積ん読の解消、また再読がなされやすくなるとともに、本を購入するペースが遅くなり、金銭的にも本探しという点でも持続可能になる。②については過去の経験により、こうすることで積ん読率が下がり、読破率が上がるということを学んでいるからである。③、これは恥ずかしい話ではあるが、本探しに困っていたら、amazonのレビューで高評価のものはだいたい外れがないということに気付いて、活用し始めたのである。良書と出会う確率が高ければ、読書生活の持続も期待できる。

 ちなみに過去、amazon高評価で購入して、良かったものを3冊紹介する。内容、レビューはアマゾン参照。

①木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか 増田俊也 ☆4.7
https://www.amazon.co.jp/dp/B0096PE4DE/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

②聖の青春 大崎善生 ☆4.8
https://www.amazon.co.jp/dp/B00LP6RWTK/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

③フェルマーの最終定理 サイモン・シン ☆4.8
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%AE%9A%E7%90%86-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3-%E3%82%B7%E3%83%B3/dp/4102159711

 これら3冊は本当に人を選ばず面白く、心揺さぶられるのでこのブログを読んでいる諸君にはぜひ読んでもらいたい。

 amazonのレビューを参考にすると同時に、ほしいものリストも活用しだした。本に関しては書店で買うのがほとんどなのだが、便利なので活用している。最近ではこれに追加する本を探すのが楽しみの一つである。
 最後に蛇足ではあるが、私の趣味趣向の紹介として、ついでにジャンルの整理もかねて、現在のほしいものリスト「2016年中に読破できたら最高」に入っている本を列挙する。

<科学読み物系>
科学者とあたま
雪を作る話
なぜ花は匂うか
緑の色鉛筆
飛行機の黄昏
空想自然科学入門
タオ自然学-現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる
ファインマン物理学<1>力学
進化しすぎた脳-中高生と語る「大脳生理学」の最前線
利己的な遺伝子
ご冗談でしょう、ファインマンさん
ホーキング、宇宙を語る
脳の中の幽霊

<自己啓発/経営学系>
人を動かす
生き方
知的創造企業
小倉昌夫 経営学

<小説>
スティル・ライフ
コンビニ人間
罪と罰
グレート・ギャツビー
将棋の子
春の雪-豊饒の海

<エッセイ>
不道徳教育講座
うらおもて人生録
嘘つきアーニャの真っ赤な真実

<その他(新書・学術系など)>
決断力
不屈の棋士
葉隠入門 
昭和16年夏の敗戦
失敗の本質-日本軍の組織論的研究-
吉田松陰 留魂録
一四一七年、その一冊がすべてを変えた
物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術
孫子
教養主義の没落-変わりゆくエリート学生文化-


科学系に偏ってるな~。好きでね。しかし2016年のうちに読むのは無理だなこりゃ。

2016年7月23日土曜日

Go!


ポケモンGOリリース!

実は私、ポケモンに関しては一番最近発売されたアルファサファイヤで760匹ほどのポケモンを集めるくらいにはマスターなんですけど。

さっそくダウンロードして、ヒトカゲとキャタピーとドードーだけ捕まえた。でもなんだか外でやるといかにもポケモンGOやってますっていうのがばれて恥ずかしそうだな~。今月は通信制限だし、これからはまるかは未知数であります。

日本より先にアメリカをはじめとしていくつかの国で先にGoさんは出ていたので、すでにいろんな話が聞こえてくる。任天堂の株価が上がったとか、ポケモンを探していたら死体が見つかったとか、うつ病が減ったとか。やはりクローズアップされるのは、今までゲームというものは人を家にこもらせていたのが、Goは外に出させる点で画期的であると。実に素晴らしい。

しかし、私は言いたい。人を外に出した「ポケモン」はこれが初めてではない。

ここでポケウォーカーと思ったあなたは50点。ハートゴールド、ソウルシルバーについていたあれであるな。正直なところ、私はこれを持っていなかったので以下割愛。



時は遡って20世紀。あなたは知っているだろうか。「ポケットピカチュウ」の名を。

これ!















ああ!懐かしい!というか、ピカチュウかわいい!!

ポケットピカチュウは、万歩計とゲームが一緒になったようなやつで、歩いて電気をためてピカチュウのお世話をするような、そんなゲームだったと思う。ちなみにうら若き小僧だった私は当時、「まんぽけい」を響きだけで認識していたので、まんぽけいのぽけはポケモンのポケだと思っていた。


任天堂は20年近く前からゲームで人を歩かせようとしてたんですよ。今に始まったことじゃなく。(ポケモンGoが任天堂のものと言っていいのか知らんが)

しかしまぁなかなかの勢いでポケモン復権という感じがある。ポケモンGoは昔と違って大人もやるけど、こどもが楽しんで欲しいねぇと、ポケモンで育った私は思うよ。

2016年7月14日木曜日

私を映画に連れてって


 映画をもっともよく映画館に鑑賞しに行ってたのは浪人生のときで、当時は週に1度、「午前10時の映画祭」の作品を欠かさず観ることを自分に課していた。当時は友人と遊ぶこともほとんどなく、本当に勉強以外のイベントのない日々だったので、自分を枯らさないために、浪人の時期をプラスに変えてやろうという気持ちがあってのことだったと思う。もっとも、それは夏までのことで、どうしても一度行けないことがあってから、受験への焦りもあったか、ぱったりと途絶えてしまった。

 それ以降はめっきり減ってしまって、大学生になってからは年に10回も映画館に行っていないのが続いている。

 特に最近になって、ひとりで映画に行くのがおっくうになってきてしまった。映画というのは受け取る人によって感想も違うので、どうしても終わったあとの熱の差とかが嫌で、映画は一人で行くものである、という考え方を持っていたのだが、今では誰かと観に行く方が好きだ。ご飯を一人で食べるのも寂しい。

 明日は午前中も暇で、ちょうど「アマデウス」がやっているので、観に行こうかな…と考えたのだが、なんだか面倒くさいので、やめにしようと思っている。こんな時間になってしまったからコンディションとしてもよくない。5年前の自分だったら絶対に行っていた。

 実際、浪人時代に観た映画の数々、そして有楽町みゆき座からの夜の帰り道、それらは僕の財産として残っている。そしていま、学生生活最後の2年間になって、こういうことができるのも限られていて、あとあとになって後悔しかねないのはわかっている。わかってはいるが…。

2016年7月11日月曜日

民主主義は最悪の政治形態である。今まで試みられた他のあらゆる政治形態を除いては。


 野球と宗教と政治の話はするなみたいな言葉があり。特に政治の話は難しい。口にしたとたんに自分の知識見識の浅さが露呈するというところが大きいかも。Facebookで投稿するのも同様で、決して悪いことではないがそういうのを見ると違和感、むずがゆさがある。それは、普段の人間関係の中では政治的考えが表に出ないので、ちょっと戸惑うのである。

 私自身が政治に関して発信することはほぼない。どうしても借り物の言葉になってしまうのが分かっていて、それが嫌だったからだ。今になって少し書こうと思ったのは、自分の成長のためと、考えを整理するため、ほんの少しでも自分の言葉で書けそうなことが出てきたからだ。残念だけど別に読むほどのものではない。

 今回の参議院選挙は選挙権が18歳に引き下げられた。よく言われる、若者の投票率が低いから老人向けの政策になると。若者よ、選挙に行けと。

 自分自身は20歳になって選挙権を得てからたぶん、毎回投票に行っている。行くことにどれほどの根拠があるわけでもない。なんだかんだで、自分の一票で何かが変わるわけではない。選挙にいかない人はこの強い理屈があるし、誰に投票すればいいのかわからない(興味もないし)ということがやはりあるだろう。そう考えると投票率が低いのも当たり前に思う。

 では私がなぜ投票に行くのかというと、なんとなく一人の成人として投票は行って当然という気持ちがある。それと、奥底にある、主権者としての意識。俺が行かずに誰が行く。僕たちは民主主義のなかに生きているのである。マスター・ケノービは言った。私は共和制と民主主義に忠誠を誓っている、と。それならば私も誓おう。民主主義に忠誠を。

 でも民主主義って正直よくわかっていない。そうしたら本屋で小林よしのりのマンガが目についた。小林よしのりってなんだか忘れたが、政治主張の強い人だったよな。パラパラとみると、日本人は民主主義に幻想をいだいている、民主主義は武力と切り離せないものである、奴隷の平和よりも危険な自由を(日本はアメリカの奴隷)みたいな内容で、最後は民主主義は愚民主主義だから、寡頭制民主主義にしよう(一定の試験による選挙権の付与)というまとめだった。

 私が政治知識の少ない分、この本を読むのは現段階では危険な感じ(毒される可能性がある)がして買うのは控えたが、歴史的背景を知るという点においては有効な感じもしたのでちょっと今度読むかもしれない。とにかく何もわかっちゃいないので。

 それはそれとして、今回私は選挙で民進党に投票した。そうするに至った基本的な考えとしては
①政権運営能力があるのは自民党だけ ②自民党が絶対勝つ ③民進党が最大野党である ④自民党の憲法草案がゴミ

 個人的にアベノミクスには興味がなく、外交能力は疑問もあっても最悪国益が損なわれるくらいのことはどうでもいい。だが憲法改正によって人権が損なわれるのはいけない。安倍の下での改憲だけはよしておくれ!正直与党が3分の2とって発議するくらいはいいと思うのだけど、やつらは論理関係なしで議論なく数で押し切るし、それで国民投票になったら、この前のイギリスのEU離脱の件もあるから風向きによっては何があるかわからんし、心臓に悪い。それなんで、なんにも評価するところはないけど反対勢力の民進党に入れた。

 あんな憲法草案を見たらもっと自民に入れるひとは減ると思うけど、結果現在のところだいたい3分の2行くか行かないかくらいらしい、まぁだいたい想定内ではある。それはそうだろう、老人はインターネット見ないから。僕が改憲案とかみたのもインターネットだし、テレビや新聞みてるだけじゃ全く出てこない。

 だからそういう意味ではテレビと新聞しか見ない老人の意見が色濃く反映される選挙っていうのはやはりバランスが悪いなとは思うね。

 あー疲れた。無知をだいぶさらしてるけどたまにはご愛嬌。




2016年5月30日月曜日

5月も終いやな

ここのところは、研究室もそんなに忙しくなく、休日にはスポーツにいそしみ、睡眠も十分にとり、彼女に会い、友達に会い、本を読み、テレビを見、ラジオを聴き、工作もし、こうやって並べ立てるとプラスの条件はとても多くある一方で、マイナスのこともさして浮かばない。

しかし、どことなく退屈である。

高校のとき政治経済の先生が配るプリントのタイトルが『退屈』だったな。なんでそんなタイトルだったか、聞かなかったと思うが、今でもなんとなく印象に残っている。

この全身にまとう退屈感。どうしたもんかね。ある意味、自分を追い立てる、何か大変なものがあるときはそれが苦しみとなり、それが終わることが楽しみになる。今はそうでないということで、それは喜ばしいこと贅沢なことかもしれないけれど。

2016年5月1日日曜日

みんなの価値観


「価値観の押し付け」が嫌いだ。自分の考えが絶対的に正しいと思っている人の、一方的な主張。
他人の思想に対する必要以上の干渉。なんとなく、年を追うごとに周りにはこういう人が減ってきたような気がするが、これは人の成長なのか、自分がそういう人を避けてきているのかは微妙なところである。(なんとなくマイノリティー的な、というか若干「ずれている」感じのある人は、多分さんざん人に価値観の押し付けをされてうんざりしているのか、そういう人ほど人に押し付けるようなことはしない気がする。)

しかしこういうことは、昔は考えていなかった。どんな話をしていたのかは忘れたが、高2ぐらいのころに宮沢に「それは価値観の押し付けでしょ」と言われて、はぁ、そうか、と思ってそれ以来ずっと気を付けている。

こういうことに対する嫌悪感は、多分もっと昔からあったのだと思うけど、それをはっきりとした言葉にしたことはなかった。だから人に対しては気づかずにしていたことが多かったと思う。

でもこれってけっこう重要なことだ。だって、人の考えなんか、文字通り他人事で、どう考えていようが全くどうでもいいことなのだし。
インターネットの論争なんかほとんど価値観の押し付け合いじゃないですか?現実でもそういうことがまぁ~、ある。それはほとんど差別的であったりする。「自分とは違う立場の考え方が存在する」「その考え方と自分の考え方はフラットな関係である(優劣はない)」ことに気づいていないのである。

じゃあどうしてこういうことを道徳の時間に僕たちは習わなかったのか?個性が大事、みたいなことは聞いたかもしれないけど。
それはもう教育そのものが価値観の押し付けだからですな。でもこれはもう仕方のないことだ。だって先生や親がなにか言う度に「それって価値観の押し付けじゃない?」といちいち子供が言っていたら、教育にもなんにもならない…。(笑)

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さてもうひとつ、「みんな」という概念が嫌だ。なんだか中学生みたいだが…。

やっぱりこの世の中一定数いるのは、「みんなやってるよ!」という類のことを言う人。ここには問題が二つあります。
まず一つ目はそのみんなの行動が正解だと、なんの疑いもなく信じていること。
そしてもう一つ、その「みんな」って、なに?どうもぼくは含まれていないようだけど…
みんなとはevery oneである。雰囲気的には一人残らずという感じである。絶対君のいうみんなは、一人残らずではない。ぼく以外にも含まれていない人がいるだろう。なんとなく多数派っぽい、というだけでしょう、と。そんな多数派も、ごく狭い世界のなかのものでしかないのに。

でも実際にこういうこという人って、素直ないい奴、というのがだいたいだから、ちょっと何もいえなくなる。「君のいう、みんなの定義とは…そもそもみんなのやり方が正しいのか…」なんて言ったら「そんなこといちいち考える?(不幸せな奴だなぁ)」と呆れられるのがオチである。

でもやっぱり、必ずしも「みんな」の考え方が正しくないかもしれないと疑うことは重要だと思う。そうです、価値観の押し付けって、だいたいはマジョリティからマイノリティに向けてされるものだから。

じゃあこれも教育で、と思うけどこれもまた難しいよ。特に日本人にとって、「正しさ」を教え込むために「みんなそうしている」っていうの強いからな。「ヨソはヨソ、ウチはウチ」とは言うけれど…。


2016年4月14日木曜日

書き言葉の難しさについて頑張って書く回


今日はテーマ上、放り出さずに頑張って書きます。余計なことを考えずに、丁寧に書きます。

私はしゃべることに関してはかなり好きで、わりかし得意なところでもあります。

しかし、ご存知の通り、このブログがなかなか更新されないように、書くことに関してはあまり得意ではなく、さらに言えば、好きでもないと言えます。Twitterでも、3行以上の投稿をすることはめったにありません。

なぜだろう。

まず一つ、思いついたのは、書き言葉における情報量の少なさです。やはり、人に対して実際に話をするときには、トーンや間、その他の非言語情報を使っています。これは無意識的ですが、よく考えると、たぶん私はこういうことを多用している、あるいは頼っている方ではないかと思います。それに対し、書き言葉では「内容」そのものが非常に重要になっている。そこで、人に話をしているときのように書こうとすると、いつも使っている「テクニック」のようなものが使えなくてもどかしい、そういうことになって筆?が進まない、というわけです。

二つ目は、書くことは一方通行であるということです。話すときは相手方がいるので、「会話の流れ」というものがあり、その一つ一つは、しばしば、短い。だいたい私は、「返し」に特に重点をおいているので、発信し続けなければいけない執筆はなかなか難しい。私には言いたいことが何もないのだ。

次はみっつめ。だんだん雑になりそうなので気を引き締める。
書くことの最大の問題点、それは「残る」ということです。「残る」ということは、人目に触れるということと、自分の目に触れる、この二つの可能性がある。常に誰の目に触れるかということを意識して書くから、なかなか自由には書けない。たとえ誰が見なくとも、最後には自分がいる。しばしば、Twitterを書きかけて「これは…何が悪いわけではないが…なんかキモイな…」ということがある。「なんかキモイ」感覚は、同じことを書くのでもブログ書くなら大丈夫だったりするので解析が難しい。やはり、誰に見られているかというところが大きい。しかし、だれにも見られないという前提で書く日記も、そういう感覚から自分にブレーキを書ける。手書きだと、なおさら生々しくて、キモさも増すものである。

とりあえず以上の三つということにしておく。いつもならここでやめて風呂に入るところだが、今日はもう少し書こう。

特にTwitterのような場で、私が気にしてしまうのは「著名人呼び捨て・さんづけ問題」です。
昨日のテレビで水野しずさんという人が出ていて、それがなんとも良かったので、つぶやこうと思ったのだが、「呼び捨て」にするか「さんづけ」にするか。この問いが私を阻みました。

「呼び捨て」。これはどうだろう。私のような一凡夫、しかも相手より年下の人間が、呼び捨てにして偉そうに何かを物申す筋合いはあるのか。しかもその相手もTwitter上にいる。何かのはずみで相手が見ないとも限らない。そうなると手は動かない。(呼び捨ては、話し言葉の上では何ら抵抗はないのですが)

では「さんづけ」をするか。こっちはこっちで、どうも違和感がある。やはり話し言葉だと呼び捨てなのでその感覚の延長があるからだ。お前はなんだ、知り合いなのか、という感じもないではない。やめだ、やめだ。

そのようなわけで、もやもやしたのでこういうブログを書くに至ったのであった。

というわけでそう、水野しず、いや水野しずさん、ここではわりとどっちでもいい、この人がテレビに出ているのをみて私はなんだか変に笑ってしまったり、感激したりしたのだ。この感じはとにかく何とも言えないのだがとにかく心を打たれたのは事実である。会うのはちょっと恐れ多い、が、テレビではもう少し見てみたい。ちなみにFacebookは友達だ。

ふむ、なんてことはない、これだけのことを書くことすらTwitterではできないのです。私は。
しかしブログは自由に書かせてくれる。前置きはずいぶん長くなってしまったが。

以上である。ところで著名人でも、外国人、あるいは力士は平気で呼び捨てしますね。

それともう一つ、書くときは、ですます調とだである調の統一が私にとってはとても難しい。

2016年4月9日土曜日

メモ的投稿

おばんです。

春に…なりましたね。桜もちらちら散って、新緑ちょぼちょぼ

年度も変わって、新年度。わたしもなにやら新入生、形ばかりの新入生

どうにも本は、読む気が起きない。食欲は、ふつう、体調は好調

わりと、暇がある

映画はすこし、積極的に観ている

この時期は何かと飲み会が多かったが、ピークも過ぎ

あたらしく始まった、とと姉ちゃん、は面白そう

夜更かしが多い

今日はここで終い!ブログ書くのもさぼりすぎると書けなくなっていけませんね。




2016年1月29日金曜日

いちご100%


ついに、およそ10年越しに『いちご100%』を全巻読んだ!

こんなに面白いマンガだったとは!

これ以上は書けない。書こうと思っていたが、文章ではどうしても気持ちを表現できない。

誰かいちご100%を語らないか?ぼくは東城綾派。

2016年1月10日日曜日

あけましておめでとうございます2016。

今年もブログはなんとか続いている。

本当は年が明けてすぐにブログを更新するつもりだったのが、少し遅れてしまったのは、新年から私が「断インターネット」をしているからである。断ネットとはいってもLINEもできないのでは困ってしまうので、「インターネットブラウザを見ない、Twitter、You tubeなども見ない」というのが実際だ。

こういうことは例外を設けてしまうと、だんだんとそこから雨漏りのように綻びが生じて、気づけばダメになっていたということがよくある。だからブラウザを開く必要があるブログも書いていなかったが、いいやと思ったので書いている。

だいたい断ネットの類の取り組みは、あまりにも時間をそれらに無為に費やしすぎることの反省から始まる。今回もそうである。結局のところネットを絶ったところで、その時間をなんら生産性のあることに使えない自分に気が付いて、やめるのがいつものパターンだ。今回もなんの目標もないし、いつ復活してもいいと思っている。ただ反省からの「期限なし」謹慎期間のようなものだ。

ネットを使わないとなると暇な時間が増える。正直最初はその時間を英語の勉強なんかに使ってみようと試みたのだが2日でやめた。それはそれでいい。そういうものだ。

ネットをやらないとどうも刺激が足りないと感じる。何か刺激がほしいと思い、行きついたのは雑誌だ。普段は目もくれないコンビニの雑誌コーナーがネットを絶っている今の私には刺激的な場所に見える。本当に。

雑誌は普通の書籍とは違ってどこから読んでもいいし、すべてを読まなくてもいい、そういう気楽さがある。そういう点でインターネットに近いが、自分の興味の幅を少し超えた記事も読むことになって、それがなかなか面白い。

しかし結局すぐ読み終わってしまい、その後文庫を二冊買った。いずれもその雑誌の中で紹介されていたものだ。雑誌を買ったのは三日前である。これでは金がかかって仕方がない。この生活は長くは続かないだろう…。

インターネットはただで無尽蔵に情報が出てくるからすごいけど、音楽しかり、動画しかり、こんなことがあらゆる分野で起きてると思うと売る側は本当に大変だと思う。

でもお金を払って得るコンテンツはたぶん上質だ。もう少しだけインターネットを絶っていようと思っている。