2016年9月27日火曜日

自分自身という殻の破れなさは異常。

はーい。今回はカンボジアからの投稿ですよ。

ここのところよく考えるのは、自分は永遠に自分から逃げられないということです。
夏休みという時期もあって、いろんなところに旅行に行ったとか、そういうのをFacebookでよく見る。
留学している友達もいるな。そういうのに少なからず憧れたりするけど。みんな知ってるようにいいところ、きれいな部分を切り取ってあるじゃん、ああゆうのは。現実は写真の100倍以上の情報量?もっと多くのものによって構成されている。それはすべて自分中心、自分の感性によって展開されて、しかもどこにいっても自分の生活、そう、ライフ、どっこに行っても自分の生活なんだよね。

自分が強すぎる。自分自身に縛られているような感じだよ。この感じは他の人はどのくらい持っているかな。ある程度、自己の世界が確立されてしまったからこそ、自分の解釈、自分の尺度でしか行動できないこの感じ。

カンボジアにいても夜出歩きもせず、こうやってしこしこブログを書いている、これが私ですからね。家にいるのと何ら変わらんよ。これが自然なる自分の選択で、強い。強いんだよな~。勝てる見込みない。

自分の世界、広がらんな~。広がった瞬間にそれが自分の世界の内側になるからそういう思いが強くなるというのもあるけど。誰かに引きずり込んでもらうしか違う世界への行き方はないような気がするよ。けっこう最近の自分を思い悩ますテーマである。

2016年9月12日月曜日

調子の波

 前回書いたのがおよそ2週間前だが、あれから1週間ほどは非常にいいペースで読書が進み、そのあとの1週間はだいぶペースが落ちて停滞している。

 こうしたことは以前からよくあることである。今まではここでブームの終息を迎えていた私だが、今回はこれがどういうことなのか考えてみたい。

 まず、そもそも自分の中の読書ブームが始まるというのは、まぁいろいろあれど、まわりの環境(忙しさや生活リズム)と、自分の精神状態がそろったときに、何かしらのきっかけがあって始まるものである。当然、この環境と精神状態は波のように絶えず変化し続ける。

 読書というのは精神的な部分が整っていないと、まず内容が頭に入ってこないものである。これは例えば筋トレや片付けのような他の活動が、(最初のハードルが高くても)やり始めると勢いがつくものとは決定的に違う。自分の頭のなかが何か別のことによって埋め尽くされているときに読書に没頭するのはなかなか難しい。

 今現在の私は上のような状況に近いがしかし、ペースが緩くなった始まりはそうではなく、もっと自然なものであった。それはおそらく単純な脳の疲れだ。

 毎日ランニングを続けると体に疲労がたまっていくのは当たり前だが、たぶん読書を続けたときにも同じような現象が起きている。脳が疲れてくるのだ。特にちゃんとした本を読み続けていると。

 このようなときには読む本のレベルを下げる。古典からエッセイへ、そして最後は漫画へ。漫画は基本どんな時でも内容が頭に入ってくる。このようなバランスのとり方も大事だと最近では思っている。私は前回の投稿でもお察しの通り、「自分のためになるような」読書をつい求めてしまうところがあるが、実際には脳がそこまで成長していない。そこでむしろ清濁併せ呑むという気持ちで、しょ~もない漫画を読んでバランスを取りに行くと。

 だがしかし、たとえ漫画を読むにしても、このようにして消費ばかりを続けていくのはどうしてもきついものである。これも何度も経験した。そこで消費過剰を解消するには、何かを生産することである。すなわちアウトプット、つまりはこれ、このブログを書くということ!そういうことなんです。今書いているのも、消費過剰を解消するためという一面が大いにある。

 また、アウトプットといかないまでも、なんとなく思索をするような、ぼーっとするような時間もまた必要だと思っている。孔子はこう言っている。「学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」。まぁこういうことですな。