2017年2月13日月曜日

20歳のころ

 今月号のポパイの特集が、20歳のとき何をしていたかというテーマでいろいろな有名人にインタビューをするという内容で、気になって買ってしまった。
 私としては「同級生」にはまだ22歳の人もいるし、気持ちの上ではあんまり変わりがない気がするが、もうすでに20歳から40歳までの道のりのおよそ4分の1を歩んでしまったわけだから、まぁ割と年月が経ったともいえる。20歳から見た24歳は結構上だろう。
 こういう特集を見ると、自分がインタビューされたらどう答えるかしら、などとついつい青い妄想をしてしまうが、正直特に語るようなことがない。しかしそれは、現在と当時が地続きで、まだ「歴史」になっていないというのも一因であるかもしれない。
 ただ、小さなネタが一つだけあることを思い出した。
 記事の中で、「20歳の誕生日をどこで迎えましたか」というのがあった。私の場合、よくよく思い出してみれば、20歳の誕生日は、絶賛入院中だったのである。お茶の水の日大病院。薄暗い6人部屋の、入って手前右側のベッド。ちゃんと手帳を紐解いてみないと誕生日から少しずれていた可能性は否定できないが、まぁほぼそう。仮に少しずれてても、インタビューで聞かれたら誕生日は入院中でしたと答える。
 そうそう。ずいぶんと暗~い20歳の迎え方である。当時からブログをやっていれば入院記がしっかり残せたかもしれないが、日記すらちゃんとつけなかったと思う。
 その時はたしか、手術前日か前々日に入院、手術のあと血が収まるまでということで合計1週間くらいの入院だった。どうせすることもないので、いっぱい本と漫画、映画がみれるぞーと思ったが、まぁそういうのは往々にしてうまくいかない。映画は5本くらいレンタルして、わざわざ6000円くらいのポータブルのDVDプレーヤーまで買ったが、結局みたのは2本だけだったな。記憶が正しければ、スパルタンXとフォレストガンプ。本に至っては、一冊も読んだ記憶がない。手術後は体力を消耗してたうえ、鼻にぎゅうぎゅうの詰め物をしてたのでしかたがない。漫画だけは結構読めた。兄に借りたワンピース(空島あたりから当時の最新刊まで。30冊くらい?)、御橋から借りた大純情くん、MW。大純情くんは特によかったなぁ。
 しかし入院というのはあれが初めてだったが、いいものである。何故なら寝てるだけでいろんな友達が来ていろんな差し入れをしれくれるから。ただ心残りなのは、女子が来なかった。そのときは鼻に詰め物をするビジュアル面の問題から、女の子にはまったく入院の事実を伝えなかったのです。必然的にそうなったのです。自ら、それを選んだのです。
 だから、こんど入院したら女子に見舞いに来てもらうのが夢なんだ。ただし、全身麻酔、それにともなう尿道カテーテル、鼻ガーゼ16枚詰め込み、夜中の出血⇒シーツ血まみれは勘弁したい。

 なんだか話が変わってしまったが、これが私の「20歳のころ」であります。


2017年1月28日土曜日

本を買うこと

 最近になって気づいたことがある。私は本を買うことが大好きだと。本を読むことが好きだと思っていたんだが、それよりも買う方が好きだ。どれくらい好きかというと、相撲を観ること、人と話すことと並んで3大趣味と言ってもいいくらいである。

 個人的な趣向として、古本はあまり好きでないので、新品を買う。新品を買うときの喜びは古本の1.5倍から4倍といったところか。(値段に比例する?)それなら古本を4冊買えばよいのでは、という人間とは議論をしたくない。

 そしてもうひとつ、面白そうな匂いがプンプンするやつ、あるいはデザインが好みのやつは、場合によってはハードカバーで買う。昔はハードカバーの本なんて誰が買うんだと思っていたんだが、今では自分が買うようになってしまった。もちろん文庫なら、同じ内容で、値段も安く、持ち運びやすい。しかし、ハードカバーが文庫と違うのは、大きさ、背表紙まで含んだすべてのデザインが、その本を完成させるためだけに積まれた努力だということである。そしてそれがその本の魅力となっている。存在感もあって、部屋に並べたときも素敵だ。

 少し前まではこういう、人に理解されないであろう、自分でもすこし矛盾しているのではないかという好みに正直になれなかったが、今は素直に言いたい。ハードカバーの本を買うのが好きだ!と。だいたい2500円から3000円だからまぁ飲み会1回分ですよ。2次会まで行ったら2冊買えますよ。そう考えるとなかなかいい贅沢なんじゃないかと思いますけど。

 ちなみに読む方に関しては昔ほど深刻に考えなくなって、まぁいい時間つぶしになったらいいな、面白い本に出逢えたらいいなという程度で、選ぶのも面白さ、好み優先になってきている。(6年くらい前のヤングな私は人格を磨くために本をたくさん読み、映画をたくさん観なくては!と意気込んでいた。それもよい思い込みだったナ。)

 そうして私の中で、本を買うということはお金の使い道のなかで最もランクが高くなった。しかし買った本たちを味わう時間も必要なので、買うにも一定のブレーキが必要だ。何より、お金が無くなるし、幸福感を味わうにはある程度の飢餓状態を作ることも重要だと思う。空腹が最高のスパイスであると言うように。

 そこで考えた。本を買うという趣味において、最大幸福を得るためにはどうすればよいか。

 そして今からさかのぼること4週間、平成29年元日。私はその数時間前にありがたくも頂いた、お年玉の1万円札を握りしめて、それを使い切るために、三省堂池袋店に行った。

{いずれここに本の写真をはさむ}

 何たる贅沢!!至福の瞬間!これが正しいお金の使い方や!「一度に二冊以上の本を買わない」という自分ルールをめちゃめちゃに破った私は満足感と幸福感に包まれて大きな紙袋を抱えて有楽町線に乗った。そして決意した。これから1か月、本は買わないぞ。と

 これが私の行きついたシステムである。予算の1万円内で本を買いこみ、それで1ヵ月しのぐ。その間に読みたい本リストを作っておき、次の月はじめにまた爆買い!

 このシステムはわりと理にかなっているのではないかと思う。予算という枠を設けることによって好きなハードカバーの本もためらいなく買える。また、1か月間本を買わないという制約を設けることで飢餓状態も作れる。予算が1万円というのは、今までの月平均から考えるとちょっと大きすぎるし、続かないと思うので変わるかもしれないが、なにはともあれ!

 元日に買った本のなかで、まだ読めていないのもあるが、それは仕方がない。しかしその代わりに1月は、昔の積ん読を解消できたり、気に入っている本の再読などもしたので良いのである。そして今は、次に買う本の候補のリストを作り、2月の来るのを待ちわびている。

(ちなみに本投稿で書いている内容はわずか半年前に長々と投稿した「私の読書生活」とずいぶん方向性が変わっています。まぁそういうもんだ。)

2017年1月5日木曜日

朝思ったこと

 なぜだか書きたいことが滝のように溢れ出している。

 その中でもすごくどうでもいいことだが、電車に乗るときに扉が閉まってしまって乗れずに諦めたその刹那、誰かが挟まったのか、もう一度扉が開くことってありますよね。その時に一歩二歩踏み出せば電車に乗れるのに、なんか乗らないで過ごしてしまうことないですか?私はもうこの電車には乗らないと決めたんだ、その手には乗らないぞ、みたいな。こういうことは自分はままあるんだが、他の人はどうなんでしょうと思っていたところ、今日そのような場面を目撃した。やっぱり誰しもにとは言わないが、ある一定の人にはあることだと思う。よくわからないけれど経済学的にはこの行動は説明されないと思うんだが、しかしある一定層にこのようなことが起こるとすると、これが起こる層には何が共通しているのか、気になる朝です。

2017年1月4日水曜日

迎春

 あけましておめでとうございます。

 年末に2016年まとめの投稿を書こうかと思っていたが叶わず終了してしまった。内容は練っていたがこればかりは永遠にお蔵入りでしょう。

 とはいえ、年内にやろうと思っていたことは8割くらいできたので、それなりにすっきりした気持ちで新年を迎える運びとなりました。

 さて、移動中に音楽を聴く期、聴かない期があるがここのところしばらくは聴かない期である。すると同じ曲がずっと頭の中を流れているということがある。それが今はプリンセスプリンセスの「世界でいちばん熱い夏」なんだが、かれこれ2ヵ月近くである。真冬なのに。

 こういうのは自然と収まるものだが、ちょっとそろそろ消えてほしい。こういうのはきっと嫌というほど聴けばいいと思う………

 違うんだ、ほんとうは ここでいつも頭のなかを曖昧に流れる歌詞を書いてやろうと思っていたんだ。でもそういう流れにならなかったし、なんだかもう眠い。

 今年もブログを終わらせずに来年へとつなげる。以上

2016年12月21日水曜日

鎮魂歌

年の瀬ということでこのブログを振り返っていたら、まぁまぁ書いてあるにもかかわらず下書きに入れられたまま日の目を浴びずにいたのが3件あったので、ここにまとめて載せることで成仏させてあげます。公開しなかったのはうまくまとめられなかったとか、自分の考えていることを文章化できなかったとか、そういう理由。

どうせなので、解説もつけてみました。

①8月21日 無題

オリンピック、見てますか~?

オリンピックは面白い。

みんな私からは信じられないような努力しているという点。

1日12時間の練習という。

 そうして獲得したメダルは、とてつもなく大きな価値があるが、それは社会的な価値と、本人にとっての価値である。私たちは例えば日本選手がメダルを取ったりするとそれを自分のことのように喜び、ときには涙を流すことさえある。しかし、当たり前ながら「自分のこと」と「自分のことのよう」では全く違う。
 
 考えてみよう。例えば生まれつきの超絶天才がいるとする。(これはもちろん、ボルトとかフェルプスのような傍から見た天才とは違う、現実にはおそらくありえない存在である)その天才が何の努力もなしにオリンピックで金メダルを獲得できたとして、それは本人にとって価値のあることだろうか?おそらくないだろう。

さて、これはずいぶん簡単な思考実験であるが、これを私たちの経験できるようなことに寄せて考えてみるとどうだろう。

例えば勉強で考えてみる。大学受験というのは、とにかく結果だけを見るものである。どれだけ努力をしようが、それは関係がない。高校にほとんどの勉強も、大学受験を念頭に置くものである。
なので私は、定期試験の点数が悪くても受験ができればいいんだろ、という気持ちでやっていた。(こういう考え方の人間が浪人をすることは当然の結末であった)



卓球の愛ちゃんは幼少期から注目されていたが、小学生の時代にインタビューをされた際にこんなやりとりがあったという。(細かい文脈は忘れてしまったが)
「四次元ポケットがあったら、どんな球でも打ち返せるラケットがほしい?」
「いらない。練習でうまくなる」
こうである。

(解説:たぶん、努力して得た結果は本人にとってすごく価値がある!ということを書きたかったのだが、オリンピックで興奮してしまったせいか、まとまらず)


②8月21日 無題(なぜか上のと同じ日)

1年ぶりの蓼科生活から帰ってきた。

去年は同期2人と行って、それでとても楽しかったが、今回は単独で乗り込んだので去年のように楽しめるかという不安があった。しかし、その不安をよそにばりばり楽しんできた。

いま蓼科ロスの状態にある。このような気持ちになるのは年間でもそうそうないので書き留めておかねばなるまい。


・中毒的
・先輩ぶれる
・安易な快感
・彼女がいるだけであの反応
・かわいい


頭の中を流れるは「愛を込めて花束を」である。ぜひとも桐陰祭で合唱をもう一度聞きたいと思っている。

(解説:急に箇条書きが始まり意味不明。これも、いろいろ書きたさに文章力が敗北した好例。)

③9月13日「モチ女」

 今まではっきりと意識していなかったが、今日本多君と話していて、私の行動意欲を非常に左右する存在がいることに気が付いた。それがモチ女、すなわち「参加したいモチベーションを高める女子」である。
 誘われた飲み会、今日はどうしようかな~というとき、あの女子が来るということであれば、じゃ…私も行こうかな~なんてこと、男子諸君は非常によく経験していることだろう。それはモチ女です。

 ただ可愛いというだけでモチ女になるものではない。重要なのはある程度自分と仲がいいこと、そして自分に対するそれなりの好意が感じられることである。これはもう、そのイベントが楽しくなることが約束されているようなものである。(可愛いだけで仲良くもない女子では、やっぱだめだよね)

 過去あなたが参加したイベントを思い出してごらんなさい。まず、男子だけの遊びはだいたいそれなりの楽しさがある。ここに女子が加わったとき、楽しかった思い出と、なんでこんなのに参加しちまったかなという思い出にはっきりと分かれるのではないか。(ここで注意すべきは男友達に準ずる女友達とモチ女を混同しないことである。モチ女は1人でも場を整え、どのようなメンバー構成でも生きるが、女友達は埋没する場合がある。)
 
 まぁ私もこれを書いていて正直どの程度賛同を得られるのかわからないのだけど、実際みなさんどう?男子諸君の意見をお聞きしたい。

(解説:これは普通に書き上げたが、なんか気分が乗らずにあげるのやめた)

2016年12月20日火曜日

頭の良い人は

 昔の科学者はよく随筆、エッセイを書いていた。一般的にはあまり知られていないが、たとえば寺田寅彦というのはその代表格で、夏目漱石とも親交があった人物である。岩波文庫から「柿の種」という随筆集が出ているが、これは私の人生のなかでも特に好きな本の一つです。ああいう文章を書いてみたいと思って、このブログを書いている。

 頭の良い人の頭の中をのぞいてみたいということをつねづね思っていて、エッセイを読む行為はその一つであるような気がしている。専門的なことを専門的に語るわけではなくて、普通の風景をみて、私では見逃してしまうような切り口でものを見ている、それを教えてくれるのがエッセイで、特に科学者が書くものは一味なにか違ったものを感じる。

 そんな私が大喜びするようなシリーズが刊行されている。平凡社からでている「STANDARD BOOKS」というものです。興味のある人は調べてみてほしい。いろんな科学者のいろんなエッセイが素敵な装丁で読める、あ~なんと素晴らしい。企画者に大感謝したい。

 それで今は、ノーベル物理学賞も受賞した朝永振一郎先生のを読んでいるのだが、ちょっと今回はそちらの文章をここに打っていきたいと思う。これが本題です。(意外とここまで長くかかってしまった)前々からこういうことをやりたいと思っていたのだが、なかなかやらなかったのだが、基本的には自分の文章の練習と、よく文章を咀嚼したいからです。でわ

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 なまいきというのは、年の熟さない者が、年うえのものの口つきや動作やなんかのまねをして、しかしまだ何となく幼くて、いくらかちぐはぐな感じがする、そういう感じをあらわすことばのようである。その場合、その口つきや動作が、そっくりうまくまねされていればいるほど、なまいきさは心にくくなる。
 男の子が成人に近づくと、なまいきな手つきでタバコなどふかすようになる。シガレットケースをパッとあけて、紙まきを一本おもむろにとり出し、次にそれを口にくわえ、ライターをカチッとおして、それに点火し、次に、ひとさし指となか指とでそれをはさんで支えながら、一息ふかく烟を吸う。すい終わると、タバコをはさんだまま手くびを外がわに、ななめ上に回転させてそれを口からはなし、そして口からフーッと烟をはく。灰をおとすときには、ひとさし指となか指とではさんでいたタバコをなか指とおや指にはさみかえ、そうして、自由になったひとさし指で、タバコのあたま近くをポンとたたく。まだ子どもっぽさがほっぺたに残っているような顔をしているくせに、こういう動作を心にくいばかり適切な速度と適切な間を以て行なうので、それは大変になまいきに見える。
 なまいきという感じがおこるのは何も人間の場合にかぎらない。ある種の動物にもそういうのがある。
 一昨年あたりから、毎年春になると庭の池におびただしい数のおたまじゃくしが生まれる。だんだん日がたつと、しっぽが消え脚がはえ、親と相似形の蛙になる。すると彼らは水の外にはい出して来る。二、三日は、池のふちの煉瓦の影や、水はけ口の日あたらぬあたりに、まっ黒くひしめき合って動いている。この、かたまって群をなしてうごめいている姿は、うっかりさわるとつぶれそうに弱々しく、一向になまいきではないが、ためしに二、三匹そっとつまんで金だらいの水の中に放ってみると、とたんに、すいすいとたっしゃな蛙泳ぎをする、そのなまいきさ。水の中に石を入れて陸地を作ってやると、そこに泳ぎついて、のそのそと上陸し、陸地の一ばん高いところにたどりつき、小指のさきほどもない小さなやつが一かどの格好で、両手をついてうそぶいている。このとき、ちょっとおしりをつついてやると、ぴょんととんで水中に飛びこんで、すいすいと泳ぐ。まさにおや蛙の動作そっくりである。


(一章まるまる写そうかと思っていたが、ここで挫折しました)

2016年11月27日日曜日

解消

 よく人に「バカにしてるでしょ!」的なことを言われることがある。そういうときはだいたい、「そんなことはないです」と言うのだが、実際ほとんどそんなことはない。この乖離がずっとあったのでなぜだろうと、考えていた。

私はよく人のことを笑うのですが、それはもうほとんど好意の現れです。それはつまりその人の言動が面白いということへのリアクションであります。面白いというのは自分の中にない感性あるいは、予想外のものに出逢ったときに、好感が加わって湧き上がるものです。そして私は面白いのが大好きなのです。つまり笑いの中にはには少しく憧れやリスペクトも含まれるので、バカにする、すなわち侮蔑のような感情は基本的にない。

ちなみに本当にバカにするような感情が湧くときもある。そういうときは基本的に黙って、笑うこともない。ただ心の中で「20余年生きてきてこんなレベルでしかものを考えられないのか」「こいつは品性というものを親の腹の中に置いてきたな」そう思うだけです。こういうときに「バカにしてるでしょ」と言われることはまずない。

笑ったときに「バカにしてるでしょ」とは言われてもそんなに角が立った感じがしないのは好感が伝わっているからではないかと思うけど。だがそれで本気で侮辱されたと思う人がいたらすまないという気持ちである。