年の瀬ということでこのブログを振り返っていたら、まぁまぁ書いてあるにもかかわらず下書きに入れられたまま日の目を浴びずにいたのが3件あったので、ここにまとめて載せることで成仏させてあげます。公開しなかったのはうまくまとめられなかったとか、自分の考えていることを文章化できなかったとか、そういう理由。
どうせなので、解説もつけてみました。
①8月21日 無題
オリンピック、見てますか~?
オリンピックは面白い。
みんな私からは信じられないような努力しているという点。
1日12時間の練習という。
そうして獲得したメダルは、とてつもなく大きな価値があるが、それは社会的な価値と、本人にとっての価値である。私たちは例えば日本選手がメダルを取ったりするとそれを自分のことのように喜び、ときには涙を流すことさえある。しかし、当たり前ながら「自分のこと」と「自分のことのよう」では全く違う。
考えてみよう。例えば生まれつきの超絶天才がいるとする。(これはもちろん、ボルトとかフェルプスのような傍から見た天才とは違う、現実にはおそらくありえない存在である)その天才が何の努力もなしにオリンピックで金メダルを獲得できたとして、それは本人にとって価値のあることだろうか?おそらくないだろう。
さて、これはずいぶん簡単な思考実験であるが、これを私たちの経験できるようなことに寄せて考えてみるとどうだろう。
例えば勉強で考えてみる。大学受験というのは、とにかく結果だけを見るものである。どれだけ努力をしようが、それは関係がない。高校にほとんどの勉強も、大学受験を念頭に置くものである。
なので私は、定期試験の点数が悪くても受験ができればいいんだろ、という気持ちでやっていた。(こういう考え方の人間が浪人をすることは当然の結末であった)
卓球の愛ちゃんは幼少期から注目されていたが、小学生の時代にインタビューをされた際にこんなやりとりがあったという。(細かい文脈は忘れてしまったが)
「四次元ポケットがあったら、どんな球でも打ち返せるラケットがほしい?」
「いらない。練習でうまくなる」
こうである。
(解説:たぶん、努力して得た結果は本人にとってすごく価値がある!ということを書きたかったのだが、オリンピックで興奮してしまったせいか、まとまらず)
②8月21日 無題(なぜか上のと同じ日)
1年ぶりの蓼科生活から帰ってきた。
去年は同期2人と行って、それでとても楽しかったが、今回は単独で乗り込んだので去年のように楽しめるかという不安があった。しかし、その不安をよそにばりばり楽しんできた。
いま蓼科ロスの状態にある。このような気持ちになるのは年間でもそうそうないので書き留めておかねばなるまい。
・中毒的
・先輩ぶれる
・安易な快感
・彼女がいるだけであの反応
・かわいい
頭の中を流れるは「愛を込めて花束を」である。ぜひとも桐陰祭で合唱をもう一度聞きたいと思っている。
(解説:急に箇条書きが始まり意味不明。これも、いろいろ書きたさに文章力が敗北した好例。)
③9月13日「モチ女」
今まではっきりと意識していなかったが、今日本多君と話していて、私の行動意欲を非常に左右する存在がいることに気が付いた。それがモチ女、すなわち「参加したいモチベーションを高める女子」である。
誘われた飲み会、今日はどうしようかな~というとき、あの女子が来るということであれば、じゃ…私も行こうかな~なんてこと、男子諸君は非常によく経験していることだろう。それはモチ女です。
ただ可愛いというだけでモチ女になるものではない。重要なのはある程度自分と仲がいいこと、そして自分に対するそれなりの好意が感じられることである。これはもう、そのイベントが楽しくなることが約束されているようなものである。(可愛いだけで仲良くもない女子では、やっぱだめだよね)
過去あなたが参加したイベントを思い出してごらんなさい。まず、男子だけの遊びはだいたいそれなりの楽しさがある。ここに女子が加わったとき、楽しかった思い出と、なんでこんなのに参加しちまったかなという思い出にはっきりと分かれるのではないか。(ここで注意すべきは男友達に準ずる女友達とモチ女を混同しないことである。モチ女は1人でも場を整え、どのようなメンバー構成でも生きるが、女友達は埋没する場合がある。)
まぁ私もこれを書いていて正直どの程度賛同を得られるのかわからないのだけど、実際みなさんどう?男子諸君の意見をお聞きしたい。
(解説:これは普通に書き上げたが、なんか気分が乗らずにあげるのやめた)
2016年12月21日水曜日
2016年12月20日火曜日
頭の良い人は
昔の科学者はよく随筆、エッセイを書いていた。一般的にはあまり知られていないが、たとえば寺田寅彦というのはその代表格で、夏目漱石とも親交があった人物である。岩波文庫から「柿の種」という随筆集が出ているが、これは私の人生のなかでも特に好きな本の一つです。ああいう文章を書いてみたいと思って、このブログを書いている。
頭の良い人の頭の中をのぞいてみたいということをつねづね思っていて、エッセイを読む行為はその一つであるような気がしている。専門的なことを専門的に語るわけではなくて、普通の風景をみて、私では見逃してしまうような切り口でものを見ている、それを教えてくれるのがエッセイで、特に科学者が書くものは一味なにか違ったものを感じる。
そんな私が大喜びするようなシリーズが刊行されている。平凡社からでている「STANDARD BOOKS」というものです。興味のある人は調べてみてほしい。いろんな科学者のいろんなエッセイが素敵な装丁で読める、あ~なんと素晴らしい。企画者に大感謝したい。
それで今は、ノーベル物理学賞も受賞した朝永振一郎先生のを読んでいるのだが、ちょっと今回はそちらの文章をここに打っていきたいと思う。これが本題です。(意外とここまで長くかかってしまった)前々からこういうことをやりたいと思っていたのだが、なかなかやらなかったのだが、基本的には自分の文章の練習と、よく文章を咀嚼したいからです。でわ
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なまいきというのは、年の熟さない者が、年うえのものの口つきや動作やなんかのまねをして、しかしまだ何となく幼くて、いくらかちぐはぐな感じがする、そういう感じをあらわすことばのようである。その場合、その口つきや動作が、そっくりうまくまねされていればいるほど、なまいきさは心にくくなる。
男の子が成人に近づくと、なまいきな手つきでタバコなどふかすようになる。シガレットケースをパッとあけて、紙まきを一本おもむろにとり出し、次にそれを口にくわえ、ライターをカチッとおして、それに点火し、次に、ひとさし指となか指とでそれをはさんで支えながら、一息ふかく烟を吸う。すい終わると、タバコをはさんだまま手くびを外がわに、ななめ上に回転させてそれを口からはなし、そして口からフーッと烟をはく。灰をおとすときには、ひとさし指となか指とではさんでいたタバコをなか指とおや指にはさみかえ、そうして、自由になったひとさし指で、タバコのあたま近くをポンとたたく。まだ子どもっぽさがほっぺたに残っているような顔をしているくせに、こういう動作を心にくいばかり適切な速度と適切な間を以て行なうので、それは大変になまいきに見える。
なまいきという感じがおこるのは何も人間の場合にかぎらない。ある種の動物にもそういうのがある。
一昨年あたりから、毎年春になると庭の池におびただしい数のおたまじゃくしが生まれる。だんだん日がたつと、しっぽが消え脚がはえ、親と相似形の蛙になる。すると彼らは水の外にはい出して来る。二、三日は、池のふちの煉瓦の影や、水はけ口の日あたらぬあたりに、まっ黒くひしめき合って動いている。この、かたまって群をなしてうごめいている姿は、うっかりさわるとつぶれそうに弱々しく、一向になまいきではないが、ためしに二、三匹そっとつまんで金だらいの水の中に放ってみると、とたんに、すいすいとたっしゃな蛙泳ぎをする、そのなまいきさ。水の中に石を入れて陸地を作ってやると、そこに泳ぎついて、のそのそと上陸し、陸地の一ばん高いところにたどりつき、小指のさきほどもない小さなやつが一かどの格好で、両手をついてうそぶいている。このとき、ちょっとおしりをつついてやると、ぴょんととんで水中に飛びこんで、すいすいと泳ぐ。まさにおや蛙の動作そっくりである。
(一章まるまる写そうかと思っていたが、ここで挫折しました)
(一章まるまる写そうかと思っていたが、ここで挫折しました)
2016年11月27日日曜日
解消
よく人に「バカにしてるでしょ!」的なことを言われることがある。そういうときはだいたい、「そんなことはないです」と言うのだが、実際ほとんどそんなことはない。この乖離がずっとあったのでなぜだろうと、考えていた。
私はよく人のことを笑うのですが、それはもうほとんど好意の現れです。それはつまりその人の言動が面白いということへのリアクションであります。面白いというのは自分の中にない感性あるいは、予想外のものに出逢ったときに、好感が加わって湧き上がるものです。そして私は面白いのが大好きなのです。つまり笑いの中にはには少しく憧れやリスペクトも含まれるので、バカにする、すなわち侮蔑のような感情は基本的にない。
ちなみに本当にバカにするような感情が湧くときもある。そういうときは基本的に黙って、笑うこともない。ただ心の中で「20余年生きてきてこんなレベルでしかものを考えられないのか」「こいつは品性というものを親の腹の中に置いてきたな」そう思うだけです。こういうときに「バカにしてるでしょ」と言われることはまずない。
笑ったときに「バカにしてるでしょ」とは言われてもそんなに角が立った感じがしないのは好感が伝わっているからではないかと思うけど。だがそれで本気で侮辱されたと思う人がいたらすまないという気持ちである。
私はよく人のことを笑うのですが、それはもうほとんど好意の現れです。それはつまりその人の言動が面白いということへのリアクションであります。面白いというのは自分の中にない感性あるいは、予想外のものに出逢ったときに、好感が加わって湧き上がるものです。そして私は面白いのが大好きなのです。つまり笑いの中にはには少しく憧れやリスペクトも含まれるので、バカにする、すなわち侮蔑のような感情は基本的にない。
ちなみに本当にバカにするような感情が湧くときもある。そういうときは基本的に黙って、笑うこともない。ただ心の中で「20余年生きてきてこんなレベルでしかものを考えられないのか」「こいつは品性というものを親の腹の中に置いてきたな」そう思うだけです。こういうときに「バカにしてるでしょ」と言われることはまずない。
笑ったときに「バカにしてるでしょ」とは言われてもそんなに角が立った感じがしないのは好感が伝わっているからではないかと思うけど。だがそれで本気で侮辱されたと思う人がいたらすまないという気持ちである。
2016年10月29日土曜日
読まないでいいやつ
今年もあと2ヵ月かあ。去年は年間35件の投稿だったけど今年は現時点で14本目。こういうのはマイナスのエネルギーの発散の場みたいなところがあるから、この結果にも納得いくよ。とりあえずブログは続いているだけで良し。気づいたらブログ開設から丸四年が経過している。もう5年くらいやったかなという感覚があるが。
今日はなかなか眠くならないので開いてみたが、特に書こうということがあるわけではない。
本当に思いつかない。
こんなのは没にしていいところだけど、載せることにする。
2016年10月16日日曜日
「君の名は。」わりと面白かった派です
このブログを見ている人にだけこっそり紹介しちゃう。
「シング・ストリート 未来へのうた」
一切話題になってないけどよい。シネマート新宿(新宿三丁目からわりとすぐ)であと1週間くらいは観られるかな。
「シング・ストリート 未来へのうた」
一切話題になってないけどよい。シネマート新宿(新宿三丁目からわりとすぐ)であと1週間くらいは観られるかな。
2016年9月27日火曜日
自分自身という殻の破れなさは異常。
はーい。今回はカンボジアからの投稿ですよ。
ここのところよく考えるのは、自分は永遠に自分から逃げられないということです。
夏休みという時期もあって、いろんなところに旅行に行ったとか、そういうのをFacebookでよく見る。
留学している友達もいるな。そういうのに少なからず憧れたりするけど。みんな知ってるようにいいところ、きれいな部分を切り取ってあるじゃん、ああゆうのは。現実は写真の100倍以上の情報量?もっと多くのものによって構成されている。それはすべて自分中心、自分の感性によって展開されて、しかもどこにいっても自分の生活、そう、ライフ、どっこに行っても自分の生活なんだよね。
自分が強すぎる。自分自身に縛られているような感じだよ。この感じは他の人はどのくらい持っているかな。ある程度、自己の世界が確立されてしまったからこそ、自分の解釈、自分の尺度でしか行動できないこの感じ。
カンボジアにいても夜出歩きもせず、こうやってしこしこブログを書いている、これが私ですからね。家にいるのと何ら変わらんよ。これが自然なる自分の選択で、強い。強いんだよな~。勝てる見込みない。
自分の世界、広がらんな~。広がった瞬間にそれが自分の世界の内側になるからそういう思いが強くなるというのもあるけど。誰かに引きずり込んでもらうしか違う世界への行き方はないような気がするよ。けっこう最近の自分を思い悩ますテーマである。
ここのところよく考えるのは、自分は永遠に自分から逃げられないということです。
夏休みという時期もあって、いろんなところに旅行に行ったとか、そういうのをFacebookでよく見る。
留学している友達もいるな。そういうのに少なからず憧れたりするけど。みんな知ってるようにいいところ、きれいな部分を切り取ってあるじゃん、ああゆうのは。現実は写真の100倍以上の情報量?もっと多くのものによって構成されている。それはすべて自分中心、自分の感性によって展開されて、しかもどこにいっても自分の生活、そう、ライフ、どっこに行っても自分の生活なんだよね。
自分が強すぎる。自分自身に縛られているような感じだよ。この感じは他の人はどのくらい持っているかな。ある程度、自己の世界が確立されてしまったからこそ、自分の解釈、自分の尺度でしか行動できないこの感じ。
カンボジアにいても夜出歩きもせず、こうやってしこしこブログを書いている、これが私ですからね。家にいるのと何ら変わらんよ。これが自然なる自分の選択で、強い。強いんだよな~。勝てる見込みない。
自分の世界、広がらんな~。広がった瞬間にそれが自分の世界の内側になるからそういう思いが強くなるというのもあるけど。誰かに引きずり込んでもらうしか違う世界への行き方はないような気がするよ。けっこう最近の自分を思い悩ますテーマである。
2016年9月12日月曜日
調子の波
前回書いたのがおよそ2週間前だが、あれから1週間ほどは非常にいいペースで読書が進み、そのあとの1週間はだいぶペースが落ちて停滞している。
こうしたことは以前からよくあることである。今まではここでブームの終息を迎えていた私だが、今回はこれがどういうことなのか考えてみたい。
まず、そもそも自分の中の読書ブームが始まるというのは、まぁいろいろあれど、まわりの環境(忙しさや生活リズム)と、自分の精神状態がそろったときに、何かしらのきっかけがあって始まるものである。当然、この環境と精神状態は波のように絶えず変化し続ける。
読書というのは精神的な部分が整っていないと、まず内容が頭に入ってこないものである。これは例えば筋トレや片付けのような他の活動が、(最初のハードルが高くても)やり始めると勢いがつくものとは決定的に違う。自分の頭のなかが何か別のことによって埋め尽くされているときに読書に没頭するのはなかなか難しい。
今現在の私は上のような状況に近いがしかし、ペースが緩くなった始まりはそうではなく、もっと自然なものであった。それはおそらく単純な脳の疲れだ。
毎日ランニングを続けると体に疲労がたまっていくのは当たり前だが、たぶん読書を続けたときにも同じような現象が起きている。脳が疲れてくるのだ。特にちゃんとした本を読み続けていると。
このようなときには読む本のレベルを下げる。古典からエッセイへ、そして最後は漫画へ。漫画は基本どんな時でも内容が頭に入ってくる。このようなバランスのとり方も大事だと最近では思っている。私は前回の投稿でもお察しの通り、「自分のためになるような」読書をつい求めてしまうところがあるが、実際には脳がそこまで成長していない。そこでむしろ清濁併せ呑むという気持ちで、しょ~もない漫画を読んでバランスを取りに行くと。
だがしかし、たとえ漫画を読むにしても、このようにして消費ばかりを続けていくのはどうしてもきついものである。これも何度も経験した。そこで消費過剰を解消するには、何かを生産することである。すなわちアウトプット、つまりはこれ、このブログを書くということ!そういうことなんです。今書いているのも、消費過剰を解消するためという一面が大いにある。
また、アウトプットといかないまでも、なんとなく思索をするような、ぼーっとするような時間もまた必要だと思っている。孔子はこう言っている。「学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」。まぁこういうことですな。
こうしたことは以前からよくあることである。今まではここでブームの終息を迎えていた私だが、今回はこれがどういうことなのか考えてみたい。
まず、そもそも自分の中の読書ブームが始まるというのは、まぁいろいろあれど、まわりの環境(忙しさや生活リズム)と、自分の精神状態がそろったときに、何かしらのきっかけがあって始まるものである。当然、この環境と精神状態は波のように絶えず変化し続ける。
読書というのは精神的な部分が整っていないと、まず内容が頭に入ってこないものである。これは例えば筋トレや片付けのような他の活動が、(最初のハードルが高くても)やり始めると勢いがつくものとは決定的に違う。自分の頭のなかが何か別のことによって埋め尽くされているときに読書に没頭するのはなかなか難しい。
今現在の私は上のような状況に近いがしかし、ペースが緩くなった始まりはそうではなく、もっと自然なものであった。それはおそらく単純な脳の疲れだ。
毎日ランニングを続けると体に疲労がたまっていくのは当たり前だが、たぶん読書を続けたときにも同じような現象が起きている。脳が疲れてくるのだ。特にちゃんとした本を読み続けていると。
このようなときには読む本のレベルを下げる。古典からエッセイへ、そして最後は漫画へ。漫画は基本どんな時でも内容が頭に入ってくる。このようなバランスのとり方も大事だと最近では思っている。私は前回の投稿でもお察しの通り、「自分のためになるような」読書をつい求めてしまうところがあるが、実際には脳がそこまで成長していない。そこでむしろ清濁併せ呑むという気持ちで、しょ~もない漫画を読んでバランスを取りに行くと。
だがしかし、たとえ漫画を読むにしても、このようにして消費ばかりを続けていくのはどうしてもきついものである。これも何度も経験した。そこで消費過剰を解消するには、何かを生産することである。すなわちアウトプット、つまりはこれ、このブログを書くということ!そういうことなんです。今書いているのも、消費過剰を解消するためという一面が大いにある。
また、アウトプットといかないまでも、なんとなく思索をするような、ぼーっとするような時間もまた必要だと思っている。孔子はこう言っている。「学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」。まぁこういうことですな。
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